Rosa Mystica
-神秘の薔薇-
ルネサンス思想と西洋魔術全般の研究ページ

マルシリオ・フィチーノの生涯と著作

マルシリオ・フィチーノは、1433年にフィレンツェ近郊のフィリーネで生まれた。父はメディチ家の侍医であり、フィチーノも医者になるべく教育を施され、1450年代、フィレンツェ大学にて論理学・自然哲学および人文諸科学を学んだ。アリストテレスや中世のアリストテレスの伝統およびアヴィケンナやアヴェロエスの注解に触れ、あるいはキケロ、マクロビウス、アプレイウスやカルキディウス、アウグスティヌスらラテン著作家をもとにプラトンの思想的遺産に取り組んだ。この時期に書かれた最初の哲学的著作『プラトンの手引き』(Institutiones Platonicae)は、論理学・形而上学・自然哲学の主題をスコラ学的に扱ったものであった(ただし現存せず)が、すでにプラトンへの傾斜がみられる内容であった。

1456年にはギリシャ語の学習を開始。翌年ルクレティウスや他のエピクロス派の文献を読んだ。そこからフィチーノは、観想に向かって上昇する快楽を尊重する態度や、情念の位階秩序について学んだのである。これは、フィチーノの観想的生活を重視しつつ世俗的生活も否定しないというフィチーノの基本的な姿勢に影響を与えたと思われる。

コジモ・デ・メディチにその才能を見いだされていたフィチーノは、1462年に、コジモがビザンティンの学者から手に入れたプラトンのギリシャ語写本を受け取り 、ラテン語への翻訳を依頼される。その際コジモはフィチーノにフィレンツェ近郊の別荘を与え、フィチーノ主催のプラトン・アカデミーの活動が開始される。なお、プラトンのラテン語訳はコジモの死の床(1464年)で10篇が読み聞かされたといわれるが、印刷は1484年に短い注解付きで、さらに1496年に6つの長い注解付きでなされた。

ところでプラトン翻訳の作業は、とある書物の出現によって中断された。その書物とはやはりギリシア語で書かれた『ヘルメス選集』である。『ヘルメス選集』は,実際のところキリスト紀元数世紀の間に書かれた「折衷的で整合しない敬虔な哲学の雑録」 であるが、フィチーノの同時代人はこれらの書物を,モーセのすぐ後の時代に生きたと彼らが考えた、エジプトの神トートをギリシア化したヘルメス・トリスメギストスの著作であると信じた。コジモは、このルネサンス期に絶大な人気を誇ることになる書物の翻訳をプラトン翻訳より優先させたのである。『ヘルメス選集』の翻訳は1463年に完了した。

その後フィチーノは1469年にプラトンの『饗宴』注解を著し、1469年から1474年にかけて『プラトン神学』を執筆。その間に司祭となった(1473年)。1474年に『キリスト教について』を公刊。1484年以降プロティノスの翻訳・注解にたずさわった(1492年印刷)。1489年には『生について』を公刊し異端の嫌疑をかけられるも事なきをへた。1494年メディチ家フィレンツェ追放に伴い田舎に引退。1499年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の参事会員として生を終えた。後、同大聖堂に彼の半身像が飾られることになる。

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